静御前③ ~ 逃避行

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いまも昔もヒトの考えることって実はあんまり変わらない。
日本舞踊のストーリーを読み解いて、そこに登場するキャラクターたちの現代にも通じる想いを
お伝えしていきたいと思います。
もしかしたら、あなたの悩みを解決するヒントがみつかるかも…

今回は、静御前と源義経の別れのお話です。

|鎌倉追放

平家を滅亡に追い込んだ功労者は間違いなく源義経です。しかし、軍事的に天才といわれた義経は、
政治的には疎かったといわれています。1185年の壇ノ浦の戦いの後、義経は鎌倉へ凱旋しますが、
不信感を募らせていた頼朝は鎌倉へ入ることを許しませんでした。その理由には、壇ノ浦の戦いで
後白河法皇の孫にあたる幼い安徳天皇を救うことができず、皇位の証とされる三種の神器のひとつ、
草薙剣(くさなぎのつるぎ)を持ち帰れなかったこと、義経が奇襲攻撃で戦を進めたことに反感を
もっていた梶原景時が義経の独断専行や越権行為を頼朝に報告していたこと、頼朝の命に背いて
後白河法皇から官位を受けてしまったことなどが考えられています。
後白河法皇が平家が滅亡しても源氏が取って代わるのでは意味がないので、源氏の勢力を削ぐために、
また、北条家も源氏ではなく北条家が家督を継いでいけるように、頼朝と義経が不仲になるように
策略したともいわれています。
そもそも権力者にとって、弟とは厄介な存在で、家臣たちが謀反を起こすときに担ぎ上げられるのは
間違いなく血縁のある弟なのです。そのため、有能だからといって権限を与えすぎると、自分がやられて
しまう可能性があり、弟とは最も近くて最も危険なライバルのような存在だったのです。そう考えると、
次第に存在感を増していく義経を警戒し、自分の権力を確実なものにするために、義経を排除しなければ
ならないと頼朝が考えていたとしても不思議ではないのです。
鎌倉へ入場を許されなかった義経は、頼朝への忠誠を示すために書状を書いたり、源氏の名刀「薄緑丸
を箱根権現に奉納したりしますが、その想いは届きませんでした。

|逃避行

鎌倉に入ることを許されなかった義経は京都に戻ります。そして京都に戻ると、後白河法皇を後ろ盾に
活動の場を広げ、世間では義経こそ頼朝の後継者にふさわしいという声さえ聞こえるようになります。
ところが、この頃すでに頼朝には嫡男の頼家(よりいえ)が生まれていたため、更に関係をこじらせて
しまいます。そんな中、鎌倉で2人の父、義朝(よしとも)の大規模な供養が行われることになります。
当然、義経も参列するものと思われていましたが、勢力をもつことで頼朝に粛清されていった者たちを
思い出した義経は鎌倉へは行きませんでした。これが決定打となって兄弟は決裂し、頼朝は義経のもとへ
刺客を送り込みます。このとき静御前が刺客の夜襲にいち早く気が付いて義経に知らせ、自らも長刀で
立ち向かい刺客を退けたといわれています。
この襲撃の翌日、義経は後白河法皇から頼朝追討の院宣を賜りますが、義経に従う者は少なく、頼朝が
義経討伐のために鎌倉を発ったと聞きくと、西国(九州)へ落ち延びることを決心します。摂津国大物浦
(おおものうら:現在の兵庫県尼崎市)から船出をし西国を目指しますが、嵐に遭い船は難破してしまい
ます。武蔵坊弁慶、静御前ら数名と陸に流れ着き、吉野山の吉水神社(奈良県吉野郡)に身を潜めますが、
そこも追手に知られてしまい、さらに山奥の修験道の聖地といわれた大峰山へ向かうことになります。

|手鏡

大峰山へ向かうことを決めた義経一行ですが、大峰山は女人禁制だったので、静御前を京都へ帰すことに
します。しかし、離れてしまうならばいっそ殺してほしいと、静御前は泣いて義経にせがみます。
そこで、義経は手鏡を渡して、毎日顔を映していた鏡だから、私の顔をみると思ってこの鏡を見てほしいと
言います。

見るとても 嬉しくもなし増鏡 恋しき人の 影を止めねば

この鏡を見てもうれしくはない。だって恋しいお方の姿が映るわけではないのだから、と詠む静御前に対して
義経は枕を取り出し、この枕を離さず大切にしてほしいと詠みかえしたと「義経記」には書かれています。

急げども 行きもやられず 草枕 静に馴れし 心慣らひに

これが静御前と義経の永遠の別れとなりました。
この後、義経は奥州平泉(現在の岩手県西磐井郡平泉町)へと向かい、藤原秀衡(ひでひら)に匿ってもらい
ますが、秀衡が亡くなると、頼朝の圧力に屈した秀衡の息子、藤原泰衡に攻められて自刃しています。

|最後に

いかがでしたか。
おそらくもう2度と会えないことがわかっていての別れの場、とても切ないです。吉野山の吉水神社には、
静御前と義経が身を隠していた部屋がいまでも残っているそうです。
でも、個人的には、義経は海を渡ってモンゴル帝国の初代皇帝チンギス・ハンになったと信じています。
たとえ多くの史実がそれを否定したとしても…
さて、次回は静御前のその後のお話です。

 

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