絵島① ~ 大奥

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いまも昔もヒトの考えることって実はあんまり変わらない。
日本舞踊のストーリーを読み解いて、そこに登場するキャラクターたちの現代にも通じる想いを
お伝えしていきたいと思います。
もしかしたら、あなたの悩みを解決するヒントがみつかるかも…

1913年、六代目尾上菊五郎が舞踊劇「江島生島」を歌舞伎座の舞踊研究会で初演しました。この舞踊劇は、
実際にあった大奥史上最大のスキャンダル「絵島生島事件」がもとになっています。事件のあらましの前に
今回は、その舞台となった大奥のお話をしようと思います。
*歌舞伎舞踊では江島ですが、諸説ありますが実際には絵島です。

|江戸城

歴代の徳川将軍たちが居城としていた江戸城では、幕政も執り行われていました。そして、大奥はその江戸城に
ありました。内郭が、東京ドームの約90倍(424.8h)
もあった日本最大級の江戸城とは一体どんなお城だった
のでしょう。

|成立

江戸城は、室町時代に関東を支配していた扇谷上杉氏に仕えていた天才軍師、太田道灌によって築城され
ました。その後、小田原征伐を終えた豊臣秀吉は江戸城を本拠地にするよう徳川家康に勧めます。徳川家康が
入城した頃の江戸城は荒廃しきっていました。そこから改修工事が始まり、実際に将軍が住み始めたのは、
2代将軍徳川秀忠の頃からでした。その後も焼失、改修改築を繰り返し、完成したのは4代将軍徳川家綱の頃
でした。

|構造

江戸城は、表、中奥、大奥の3つのパートに分かれていました。表は、主な行事や儀式を行う大広間や諸大名の
控室、諸役人の詰所がある政治の場でした。中奥は、将軍が政務を行ったり生活をする空間。そして、大奥は、
将軍の正室や子供たちが生活するプライベート空間で、身の回りの世話をする1000人以上もの奥女中たちが
住み込みで働いていました。

|大奥の成立

江戸城本丸御殿の奥に女性だけの居住空間をつくったのは、2代目将軍徳川秀忠の正室だったお江与の方でした
が、この頃はまだただの居住空間でした。将軍の跡継ぎが途切れないように女性たちが大奥に集められたのは
3代将軍徳川家光の頃です。徳川家康以降、15代将軍徳川慶喜まで世襲制で265年間続いた江戸幕府において
跡継ぎの確保は幕府存続にかかわる超重大事項でした。そんな中、男色好きだった
家光に跡継ぎが生まれない
ことを心配した乳母の春日局が家光の気に入りそうな女性を集めたのが、大奥という組織の始まりでした。
DNA鑑定のようなものがなかったこの
時代、大奥は男子禁制となりました。ちなみに、家光はバイセクシャル
だったようで、多くの側室と6人の子供がいました。この時代はBLも武士の嗜みのひとつと言われていたので、
現在よりももっと垣根のない恋愛を楽しんでいたのかもしれません。

|女性の職場

大奥で働いていた女性全員が側室を目指していたわけではありません。奥女中には将軍と正室の生活を支える
という実務があり、様々な役職に分かれて仕事を受け持っていました。

|憧れの職場

数多くの映画やドラマの舞台となってきた大奥にどんなイメージがありますか。あなたは働いてみたいと思い
ますか。たぶん嫌なイメージがありますよね。ところが、想像に反して大奥は当時の女性にとって憧れの職場
でした。身分的には今の国家公務員にも匹敵するような安定した職場で、お給料は破格、しかも働きながら
礼儀作法や教養を身に着けられる、とても条件のいい職場でした。そのため、武家の娘から庶民の娘まで多くの
女性がツテをたよってやってきました。奉公するには試験があり、書道や裁縫などの作品を提出したり、器量を
みる面接もありました。その審査基準はとても高くて狭き門でした。また、出身が出世にも関わってくるので、
町人の中には御家人の家と養子縁組をして武家の娘として大奥に入るものもいました。そうしてようやく入った
大奥には「大奥法度」というルールがあり、秘密保持が絶対で情報が洩れることのないよう、面会や文通の相手
まで厳しく制限されていました。また「大奥で見聞きしたことは一切外部に洩らしません。」と血判を押して
誓いをたてた上での奉公でした。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/457671
文化遺産オンラインより 橋本周延作 錦絵「千代田の大奥」

|役職

将軍家の直参といわれる武士たちには将軍にお目通りできる「旗本」とお目通りできない「御家人」に分かれて
いましたが、大奥も同じように分かれていました。将軍や正室にお目通りできる「お目見え以上」はいわゆる
キャリア組で、正室の話し相手をする上臈御年寄(じょうろうおとしより)、老中に匹敵する実質的な指揮監督
の御年寄(おとしより)、将軍や御台所の身の回りの世話をする御中臈(おちゅうろう)などがありました。
側室は御中臈から選ばれるのがしきたりで、将軍からの指名がない場合は側室を選ぶのも御年寄の仕事のひとつ
でした。ちなみに、上臈御年寄はいわゆる名誉職で、実質的なトップは御年寄でした。年収は約3000万円で、
大奥内に約300坪のお屋敷を与えられていたといいます。大奥は、仕事によって細分化されたピラミッド型の
組織で、上司に評価されて上にあがればあがるほどお給料も待遇もよくなるシステムでした。ただし、上級の
役職者は一生奉公が原則で、生涯を大奥で暮らす終身雇用だったので、定年もなければ、自由に里帰りもできま
せんでした。

「お目見え以下」はいわゆるノンキャリア組で、数年に1回程度の宿下がり(休暇)も制度化されていて、願い
出れば暇(退職)もできました。彼女たちの目的は、勤務中の高収入に加えて、大奥に勤めていた「大奥帰り」
という箔をつけて良家へ嫁ぐことでした。

|最後に

いかがでしたか。大奥のような組織は日本だけではなく、中国の後宮やオスマン帝国のハーレムなど世界各地
にあり、国家の最高権力者に近い存在ということもあってか、いつの間にか権力をもってしまうのが時代や文化
を越えて世の常のようです。そして時に、その強大化した権力が国家を脅かすことになってしまうのもよくある
話のようです。
ところで、あなただったらどれを目指しますか。
①将軍の寵愛を受けて、次期将軍の生母になる可能性を秘めた側室(ものすごい玉の輿)
②老中にも匹敵する権力をもつ御年寄(バリキャリ)
③大奥帰りの箔をつけて良家に嫁入りする(玉の輿)
④大奥とは全く無縁のところで慎ましく生きる(ゆるキャリ?)

次回は、「絵島生島事件」のあらましについてお話しようと思います。

 

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