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いまも昔もヒトの考えることって実はあんまり変わらない。
日本舞踊のストーリーを読み解いて、そこに登場するキャラクターたちの現代にも通じる想いをお伝え
していきたいと思います。
もしかしたら、あなたの悩みを解決するヒントがみつかるかも…
今回は、伝説の彫刻師といわれた左甚五郎(ひだり じんごろう)の正体に別の角度から迫ります。
|甚五郎ブランド
以前、「左甚五郎② ~ 歩き回る動物たち」でもお話したように、左甚五郎が彫ったとされている作品は
全国各地にあります。そして、その製作年間をみてみると安土桃山時代から江戸時代後期にまで及ぶと
いわれています。さすがに「左甚五郎は織田信長の時代から江戸時代後期まで約300年にわたり活躍し
続けました」なんてことはあり得ないので、特定の人物を意味するわけではなく、全国各地の高度な技術を
持つ大工、木工、建築、細工などを専門的に行う職人たち、工匠の代名詞として使われていた、という説が
あります。また、作者不明の優れた作品をすでにブランドイメージが定着していた「左甚五郎」の作品と
いうことにして、箔を付けようとしたのではないかともいわれています。
ほかにも諸説ありますが、左甚五郎の「左」は「飛騨の」が転じたものではないか、という説も有力です。
飛鳥時代、唐の制度にならった租税制度の租調庸(そちょうよう)が大化の改新で制定されました。その際、
飛騨地方は山間部で平地が乏しく田畑も限られていたため、お米を納める「租」と特産物を納める「調」は
免除され、その代わりに飛騨工(ひだのたくみ)と呼ばれる技術者が都へ赴き、建築に従事する「匠丁
(しょうてい)」が課せられることになりました。しかし、働き盛りの男性が年間100人ほど一年間拘束され、
さらに彼らの食料は故郷の家族が負担しなければならなかったため、負担は通常の「租庸調」よりも重かった
といわれています。もともと木材加工に優れている者たちが、都で宮殿や神社仏閣の造営という
公共事業に携わり、さらに最新技術を身につけて1年後に飛騨へ戻っていき、それが平安時代末期まで続いた
ため、飛騨地方は優秀な大工の集まる一大拠点となっていきました。万葉集にも、迷いのない一途な愛情を
飛騨工の精巧な職人技に例えた歌が詠まれていて、当時から飛騨工たちの高い技術力は広く世に知られていた
と思われます。
かにかくに 物は思はじ 飛騨人の 打つ墨縄の ただ一道に
そして、技術に優れた飛騨工たちは、やがて「飛騨の匠(たくみ)」と呼ばれるようになり、全国各地に赴いて
国分寺や国分尼寺を造っていきました。そして彼らの末裔もまた、現在に語り継がれる数々の名作を生み出し、
「左甚五郎」はそうした飛騨の匠の総称ではないかともいわれています。
|「左」の由来
「左甚五郎」が「左」と名乗った由来にも、前述の「飛騨の」が転じた説のほかにも諸説あります。
大工仲間に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたためとか、もともと左利きだったためとか。
「左官(ひだりかん)」という官位を授かった、とか…さまざまな由来が伝えられていますが、
実際のところはわかっていません。
|最後に
いかがでしたか。
左甚五郎の作品は広い地域に残されており、制作された年代もさまざまです。
そのため、名前が継承されていたか、ブランド化されていたかのどちらかではないかと
考えられていますが、いまも明らかになっていません。
未だ謎多き左甚五郎は、さまざまな民間伝承や逸話に登場し、その過程で作品が歩き回るといった
ファンタジー要素も付け加えられて、超人的な彫刻師という位置づけになり、さらに多くの講談や
落語に描かれるようになりました。
次回は、才能に溢れ、気分屋でお酒を愛する、人間味豊かな左甚五郎が登場する落語のお話です。
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