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いまも昔もヒトの考えることって実はあんまり変わらない。
日本舞踊のストーリーを読み解いて、そこに登場するキャラクターたちの現代にも通じる想いを
お伝えしていきたいと思います。
もしかしたら、あなたの悩みを解決するヒントがみつかるかも…
今回は、日本で最初の海水浴場のお話です。
|大磯海水浴場
1885年、神奈川県中郡大磯町の照ヶ崎海岸に、日本初の海水浴場「大磯海水浴場」が開設されました。
開設したのは、長崎の蘭方医、ポンペから西洋医学を学び、積極的に取り入れていた、松本順です。
|松本順
松本順は、江戸時代末期には十四代将軍徳川家茂、十五代将軍徳川慶喜の侍医や西洋医学所(現在の
東京大学医学部)の頭取をつとめ、明治維新以降は、大日本帝国陸軍初代軍医総監となり、貴族院議員
にも勅選され多方面にわたって活躍した人物です。「潮流にあたり、海辺の清涼な空気を吸うことは、
健康の増進や回復に繋がる」という、蘭書に記されていた医学的知見に基づいて海水浴場を開設したと
いわれています。
この大磯海水浴場は、医療施設として開設されたため、治療に訪れた人たちが療養できる、いわゆる
病院のような宿泊施設「祷龍館(とうりゅうかん)」も併設していました。
とはいえ、この時代はまだ海水浴(潮湯治)は医療としても確立していなかったため、周囲の賛同を
得るのは難しく、建設費用などの不足分は渋沢栄一や安田善次郎らの協力を仰いだといわれています。
*日本初の海水浴場には諸説あります。
|広報活動
その後、松本順は私財を投じて大磯海水浴場の大広告プロモーションを始めます。
自身が贔屓にしていた歌舞伎役者を大磯の海水浴場に招いて、その姿を錦絵にしたり、祷龍館が賑わって
いる様子を三代目歌川国貞に浮世絵に描いてもらい、いわゆるメディア戦略を展開して、大磯での海水浴が
人気のお出掛けスポットであることをアピールしました。
また、歌舞伎の人気狂言作者の河竹黙阿弥に大磯を舞台にした作品を書き下ろしてもらい、新富座で上演して
大磯の地名を世間に広めます。
そしてさらには、鎌倉時代の「曽我物語」に登場する曽我兄弟の兄、曽我十郎祐成の恋人で大磯の遊女だった
虎御前(とらごぜん)の名前にちなんだ虎子饅頭を名物として売り出しました。
その結果、大磯海水浴場は大ブームを巻き起こし、政財界の著名人たちが続々と別荘を構え、「明治政財界の
奥座敷」と呼ばれるようになります。
|名大磯湯場対面
松本順に脚本を依頼された河竹黙阿弥は、「名大磯湯場対面(なにおおいそゆばのたいめん)」を書き下ろし
ます。内容は、以前「寿曽我対面③ 江戸のお正月」でもお話した、曽我兄弟が登場する「寿曽我対面」を
アレンジしたもので、曽我十郎・五郎兄弟をオマージュした佐賀十太郎・五郎吉兄弟と新橋芸者のお虎たちが
寒湯治に大磯を訪れ、観光をして宿泊先の祷龍館へ戻ってきたところから始まるストーリーで、避暑地として
だけでなく、避寒地としての大磯もアピールしています。
|最後に
いかがでしたか。以前も「外郎売② ~ 外郎、江戸へ」や「助六④ ~ 助六にまつわるエトセトラ」でもお話
しましたが、SNSやインターネット、テレビなどのメディアがない時代、お芝居の中で宣伝をする効果は
絶大で、大磯海水浴場の宣伝にも歌舞伎狂言や歌舞伎役者が大活躍しています。
ほかにも、松本順は健康増進のために牛乳を飲むことも勧めていましたが、当時は牛乳を飲むと角が生えて
くるとか、外国人のように髪が赤くなる、目が青くなるとか言われて全く受け入れられていませんでした。
そこで、江戸時代末期には、人気役者の三代目澤村田之助を吉原に呼んで芸者たちの前で美味しそうに牛乳を
飲んでもらったり、明治時代には、これまた人気役者の九代目市川團十郎に舞台で牛乳を飲んでもらって
髪が赤くならないことを証明してもらったりしていたといいます。ものすごいプロデュース力ですね!
次回は、海水浴のはじまりのお話です。
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