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いまも昔もヒトの考えることって実はあんまり変わらない。
日本舞踊のストーリーを読み解いて、そこに登場するキャラクターたちの現代にも通じる想いを
お伝えしていきたいと思います。
もしかしたら、あなたの悩みを解決するヒントがみつかるかも…
吉野山で離ればなれになった静御前と義経。義経は奥州へと向かい、静御前は京の都へと帰る予定
でしたが、しかし…今回は、その後の静御前のお話です。
|別れのあと
前回もお話しましたが、吉野山に身を隠していた義経一行は、追手がせまってくることを知ると、静御前を
京都へ帰す段取りをして、山伏の姿に変装し武蔵房弁慶らとともに女人禁制の大峰山に入っていきました。
しかしその直後、静御前は従者に金銀を奪われて置き去りにされ、山中を彷徨っているところを僧兵に捕え
られてしまいます。義経の行き先についてさんざん尋問され、それを終えると母の磯禅師とともに鎌倉へと
送られました。このとき、静御前は、勝手神社(奈良県吉野郡)の社殿の前で舞い、僧兵たちは深く感銘を
受けたといわれています。古来より戦の神として信仰されていた神社で舞うことで、義経の武運を祈願して
いたのだと思います。
|しづやしづ
鎌倉に連れてこられた静御前は、頼朝に舞いを命じられますが断り続けます。しかし、ついに八幡大菩薩に
供えるのだからと説得され、鶴岡八幡宮の若宮の回廊で舞を披露することになります。静御前は、義経を
慕った今様(いまよう:七五調の歌)を謡いながら舞います。
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
静や静と何度も私の名前を呼んでくれたあの人と一緒に過ごしたあの頃に戻りたい、吉野山の峰の白雪を
踏み分けて行ってしまったあの人が恋しい、と義経を慕い舞う静御前に、観る者すべての心を動かされたと
「吾妻鏡」に記されています。このとき鼓を担当したのは、曽我兄弟の仇だった工藤祐経だといわれています。
源氏を称賛する舞を披露するよう命じていた頼朝は、対立する義経を慕う今様を詠い舞う静御前に激怒します。
それを妻の北条政子は、私が同じ立場だったら同じように舞うでしょうと言って取り成したといいます。
静御前は、頼朝の長女、大姫にも舞を披露しています。大姫は、政略とはいえ婚約していた木曽義仲の嫡男、
義高を頼朝に殺害され、それ以来病床に伏せっていました。母の政子が静御前に舞って癒してほしいと依頼した
といわれています。
|その後
この頃、静御前は義経の子を身ごもっていて、出産を待ってから京都に帰されることになっていました。
というのも、生まれた子どもが女の子ならば、そのまま返されますが、男の子だった場合は、遺恨を残す恐れが
あるからと命を絶つように決まっていたからです。
そして、生まれたのは男の子。泣いて嫌がる静御前から母の磯禅師が後難を恐れて引き渡したといいます。
北条政子は、生まれた子どもが殺されると知って命を助けてほしいと頼朝にとりなしましたが、聞きいれられず
由比ヶ浜の海に沈められました。静御前と磯禅師が京都へと帰るとき、政子と大姫は気の毒に思い、たくさんの
宝物を持たせますが、それ以後の静御前の消息は途絶えていてわかっていません。由比ヶ浜へ入水したとか
奥州へ向かった義経の跡を追う途中で病死したとかいろいろな伝承が残っていますが、いずれもまだ若いうちに
命をおとしています。
|最後に
いかがでしたか。
静御前と義経の物語はドラマティックな場面が多く、2人を題材にした演目は人形浄瑠璃や歌舞伎、
そして日本舞踊にも数多くあります。義経だと「義経千本桜」や「勧進帳」、静御前だと「吉野山」や
「賤の苧環(しずのおだまき)」が有名ですが、それ以外にもたくさんの演目に登場しています。
それほど長い期間にわたって人気の高いキャラクターなのだと思います。
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