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いまも昔もヒトの考えることって実はあんまり変わらない。
日本舞踊のストーリーを読み解いて、そこに登場するキャラクターたちの
現代にも通じる想いをお伝えしていきたいと思います。
もしかしたら、あなたの悩みを解決するヒントがみつかるかも…
今回は、日本舞踊では端唄に近い三味線ものとして親しまれてきた「金色夜叉」の歌のお話です。
|金色夜叉
「熱海の海岸 散歩する……」ではじまる「金色夜叉」の歌は、尾崎紅葉の小説「金色夜叉」を題材に
生まれました。
明治時代、自由民権運動の演説の代わりに歌われた「演説歌(演歌)」は、当初は政治風刺や権力批判を
主な題材としていました。1895年の日清戦争終結後は政治色が薄れ、恋や世相を歌うものへと変化して
いきます。
この「金色夜叉」の歌も、街頭や芝居小屋でバイオリンを弾きながら歌った演歌師、後藤紫雲と宮島郁芳
によって生まれました。1918年に発表されるや否や、お座敷にも広まり、三味線ものとしても演奏される
ようになっていきました。
|背景
「金色夜叉」は、尾崎紅葉が読売新聞に連載した、明治期を代表する大ヒット恋愛小説です。
1897年の元旦に始まった連載は、紅葉が病と闘いながら執筆したため断続的な掲載となり、1902年5月に
中断されました。翌年、紅葉が35歳で逝去したことで、作品は未完成で終わっています。
連載中の読者の熱狂ぶりはすさまじく、重病を患った令嬢が自分の命よりもヒロインの鴫沢宮の運命のほうが
気がかりだと語ったというエピソードが残されています。彼女は、もし自分が亡くなったら、お花やお線香
ではなく、連載の新聞を毎日墓前に供えてほしいと願ったといいます。
|紅葉館
尾崎紅葉が生まれ育った芝増上寺裏手の高台一帯は、江戸時代初期に二代将軍徳川秀忠の命で江戸城内の
楓山から多くの楓が移植されたことから「紅葉山」と呼ばれていました。
その一角に、1881年、渋沢栄一ら実業家を発起人として、純日本式の会員制高級接待場「紅葉館」が
開業します。ほぼ同時期に開業した西洋式社交場の鹿鳴館がわずか7年で閉館すると、紅葉館は東京で
唯一最大の社交場として栄えました。
尾崎紅葉は地元の「紅葉山」という地名に愛着があり、この「紅葉館」がペンネームのヒントになったと
いわれています。
当時、紅葉館で働く給仕(女性従業員)は家柄がしっかりしていて、選りすぐりの美人ぞろいだったと
伝えられています。行儀作法や稽古事も厳しく仕込まれ、紅葉館で働いた経験は結婚の際の大きな箔付け
にもなりました。常連だった紅葉は、そこで見聞きしたことを「金色夜叉」の原案にしたといわれています。
紅葉館は明治、大正、昭和を通じて日本を代表する社交場として繁栄しましたが、1945年の東京大空襲で
焼失し、戦後、その跡地には東京タワーが建てられました。
https://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/bon-ukiyoe/008/289
慶應義塾大学メディアセンターデジタルコレクションより 三代目 歌川広重作「芝公園紅葉館楼上之真図」
|最後に
いかがでしたか。無声映画「金色夜叉」の上演にあたって作られたこの歌は、1930年代に入り、
音の出る「トーキー映画」として作品がリメイクされた際にも劇中で使われ、物語のイメージを
形づくる重要な要素となりました。
日本舞踊では馴染み深い曲として親しまれ、今もさまざまな舞台で踊られています。
次回は「金色夜叉」の原作のお話です。
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