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いまも昔もヒトの考えることって実はあんまり変わらない。
日本舞踊のストーリーを読み解いて、そこに登場するキャラクターたちの現代にも通じる想いを
お伝えしていきたいと思います。
もしかしたら、あなたの悩みを解決するヒントがみつかるかも…
大奥史上最大のスキャンダル「絵島生島事件」とはどんな事件だったのでしょう。
今回は、事件の概要についてお話しようと思います。
|登場人物
まずは主な登場人物をご紹介します。
|徳川家宣
徳川家宣は、約260年もの間に15代続いた徳川将軍の中で48歳という最高齢で将軍になった6代将軍です。
前将軍の5代目徳川綱吉の政策で不評だった生類憐みの令を廃止し、罪人とされていた8000人以上の人を
放免しました。さらに、お酒の生産量を減少させ価格を高騰させる原因となっていた酒税も廃止しました。
江戸庶民の不満を解消した家宣の政策は、わずか3年の在位でしたが高く評価されています。家宣には正室に
加えて、4人の側室と6人の子供がいました。ところが、正室の一男一女、側室たちとの間の男児3人が早世して
しまいます。そして、家宣が亡くなった1712年には、お喜世の方(月光院)が生んだ男児だけしかいません
でした。この男児、鍋松が4歳にして7代将軍徳川家継となります。将軍がまだ幼少だったこともあり、幕政は
生母の月光院、側用人の間部詮房、顧問格だった新井白石が行うことになります。
|月光院
月光院は、側室としての名を喜世といい、6代将軍徳川家宣が亡くなってから月光院と呼ばれるようになり
ました。お喜世の方は、江戸の生まれで、父は加賀藩主の住職でした。浅草でも評判の美貌だったお喜世の方
は、20歳のときに徳川綱豊(後の6代将軍徳川家宣)が幕府の公用を行っていた桜田御門屋敷に奉公にあがり
ます。明るくてはきはきとしていたお喜世は後ろ盾がほとんどいなかったにも関わらず、その才気で綱豊の
寵愛を受けるようになります。綱豊が6代将軍になると同時に大奥に入りますが、その後も学問好きの家宣に
合わせて和漢の学問を習うなど才色兼備に磨きをかけ、さらなる寵愛を受け、後の7代将軍を産みます。
絵島は、この月光院付きの奥女中でした。
|生島新五郎
生島新五郎は、幕府に櫓を立てることを認められた江戸四座のひとつ、山村座の超人気看板役者です。
歌舞伎狂言「仮名手本忠臣蔵」よりも前に赤穂浪士を題材にした「傾城阿佐間曽我」を上演したのも、
二代目市川團十郎が襲名したのも、この山村座でした。二代目團十郎は、父親にあたる初代團十郎が
生島の弟子に舞台上で刺殺され、急に二代目を襲名することになり、襲名後も芸域に悩んでいました。
この二代目團十郎の後ろ盾となったのが生島でした。弟子が起こした刺殺事件に負い目を感じたからとも
いわれています。初代中村七三郎の芸を受け継いだ江戸和事の名人だった生島がやわらかい和事を指導
したので、二代目團十郎は豪放な荒事芸だけでなく、和事、実事、濡れ、やつしなど芸域を広げ、荒事の
骨法を基本としながら和事のやわらかさを取り入れた新しい表現を生み出し、これが市川團十郎のお家芸の
確立につながったと言われています。生島は、1711年の「役者大福帳」に「今の名物男(評判の男)は
生島新五郎」と記載されるほど、名実ともに人気の役者でした。
https://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/ukiyoe/1059
高橋浮世絵コレクションより 月岡芳年作 錦絵「新撰東錦絵 生嶋新五郎之話」
|絵島
絵島は、1681年三河の国で生まれ、江戸で育ちました。本名をみよといい、甲府藩士の実父が亡くなると、
母親の再婚相手の旗本 白井平右衛門の養女となります。紀伊徳川家の鶴姫に仕えていましたが、鶴姫が亡く
なると、甲府藩主徳川綱豊の側室、お喜世の方に仕えます。そして、綱豊が6代将軍になると、お喜世の方と
ともに大奥入りします。みよは、美人で頭もよく機転がきいたと言われています。仕事ぶりは素晴らしく、
どんな事態にも落ち着いて問題を解決したと記録に残っています。大奥に入り絵島と名乗るようになった
みよは、お喜世の方を支え、異例のスピードで出世していきます。ときに、出世するということは他人を
蹴落とすことでもあり、特に大奥という女性だけの特異な場所では、嫉妬や嫌がらせは当たり前のようにあり、
一時期絵島は悩んでいたといいます。そんな絵島に、月光院は人の恨みや妬みには構わず、皆を優しく照らす
月のような存在になるようアドバイスします。絵島と同じ女中の出だった月光院は、年齢的にも絵島に近く、
和歌を詠むことが大好きだった二人の絆はとても深かったといいます。やがて、家宣が亡くなると、月光院が
産んだ男児が7代将軍となり、月光院は将軍の生母として大奥で大きな力を持つようになりました。
そして、絵島は、大奥トップの役職、御年寄に引き立てられました。
*絵島の本名には「みよ」のほかにも「みき」など諸説あります。
|事件のあらまし
幕政を動かすほどの大事件「絵島生島事件」とはどんな事件だったのでしょう。想像を遥かに超えた展開に
1番驚いたのは絵島本人だったのかもしれません。
|代詣と芝居見物
1714年、絵島は月光院の代わりで歴代将軍のお墓参りへ増上寺へ代参することになりました。代参には、
絵島以外にも月光院付きの奥女中、荷物持ちの男性など総勢100人以上が参加しました。滞りなく参拝を
すませた一行は、その帰り、呉服御用達の商人と合流し芝居見物へと山村座へ行きます。お目当ては山村座の
人気看板役者、生島新五郎が出演する初春興行「東海道大石曾我」でした。そして、芝居見物のあと、生島も
招いて茶屋で大きな接待の宴が開かれます。幕府要人が着る呉服を仕立てて卸す御用商人が、奥女中の幹部と
懇意になるための大掛かりな接待だったと思われます。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/562899
文化遺産オンラインより 歌川豊春作 錦絵「浮繪 歌舞妓芝居之圖」
|過失
ところが、ここで絵島はささいなミスを犯してしまいます。宴が盛り上がりつい長居をしてしまったのか、
帰り道で何かトラブルがあったのか、江戸城の門限にほんの少し遅れてしまったのです。なんとか大奥へは
入れたものの、このとき門番と押し問答になってしまったことで門限に遅れたことが知れ渡り、後日評定所の
裁きを受けるほどの一大事に発展してしまうのです。芝居見物から3週間後、生島をはじめ、宴に同席していた
歌舞伎役者たち、そして最後には絵島の取り調べが始まります。そして事態はさらに思わぬ方向へと進んでいき
ます。
|最後に
いかがでしたか。これが事件のあらましです。門限に遅れたことがどうやって幕政を揺るがすような大事件へと
発展してしまうのでしょうか。次回は、驚愕の取り調べ編です。
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